1.霊性の道

 

ある程度年齢を重ねていくと、いろんなことにケリが付きます。

あきらめといってもいいかもしれません。

それは思わぬ時にやってきます。
何かを成し得た時。
逆に何かを失った時。

例えば親の死に直面するということ。

親が生きている間は、自らと死の間に壁があるようなもので、死をリアルに意識することは少ないのかもしれません。
でも、親の死を体験することでこの人生にいつか終りがあることを意識せざるを得ません。

あれだけ口うるさいと思っていた親が、ある日忽然と姿を消す。
その時、どれだけその小言が懐かしく思えても

―もう一度聞きたいと思ったとしても―

決して叶うことが無いことを知るのです。
そして、その現実を受け入れるしかない無力さを知ります。
もちろん親の死だけではありません。

私たちは様々な形で人生の見直しをせまられるような出来事に直面します。
いろんなことにケリが付き始めるのです。

 

誰にでもいつかは訪れる人生の曲がり角。
希望や期待で覆い隠すことのできた裸の自分が、無残にもあらわになる年代です。
仕事においても、子育てにおいても、何においてもそうです。
自分の力量が見えてくる。
この先に横たわっているであろう人生が、ぼんやりながら見えてくる。

こんなはずじゃなかった。

これが現実なんだ・・・と受け入れざるをえなくなります。

他の何かで埋め合わせをして、見て見ぬふりをすることもあるでしょう。
でも、「このままでいいのだろうか」
そう思う日は必ず来ます。

 

それは、ある意味山登りのようです。

いざ登山道に入ろうとするとき、はるか彼方に見える山頂。
その美しい山頂を目的に、全力を尽くして、
己の力で必ず辿りついてやるぞと意気込みます。

山道に入ってしばらくすると、たいていは空を覆い隠すような木々の森。

そこからはあの美しい山頂を望むことはできません。
見えるのは永遠に続くように思われる坂道、そして頭上には空さえ隠してしまう木々の枝のみ。

それでも、山頂という目標があります。

見えずとも、心の中にあの美しい山頂を思い浮かべます。

見えずとも、足元には山頂に間違いなく通じる山道があります。

このまま行けば必ず山頂に立てる。

息も絶え絶えに、ただ一歩一歩を進めます。

そしてようやく森林限界を超え、山頂まであと一歩。

山頂。

その刹那大空が広がります。
見えるのは、無限に広がる虚空と足元に転がる石ころだけです。
もう道はありません。

あれだけ焦がれ、求め続けた美しい頂上が、到達した瞬間、そこで忽然と消え失せます。

何のためにここまで来たのか。

どうしてここまで来たのか。

これからどこへ行こうとしているのか。

この先どうするべきなのか。

 

一見恰好がついたように見えますが、目的が見えなくなる虚しさがここにあります。
その時、目的は霧散し、ここまでの一歩一歩が実は登山そのものだったと知るのです。

人生も同じです。

ピークに辿りつき、目的に達するというのは同時に目的を無くすことと同じです。
人は目的を無くすことに耐えられないものなのです。
そして、その時が一番危ない。

見返したい。

誉めてほしい。

認めてほしい。

愛してほしい。

大抵の人生の目的なんてものは、実はこんな願いが姿を変えているだけなのかもしれません。

こうすれば、すべて上手くいくと思っていたのに

これで幸せになれると思ってたのに

これで愛されると思ってたのに

それは目的を無くした瞬間です。
それは山頂に立った瞬間です。

私も何度も何度も経験しました。
それは親に見捨てられることに恐怖し、親の“良い子”を必死になって追い求めた私の姿でもあるのです。

目的を無くした時に、
目的を手に入れる為に習得し、演じてきた道徳観や倫理観は一瞬のうちに霧散します。
謙虚さが実は己の傲慢さを隠していただけのことに気付きます。
傲慢は、己を知らないどうしようもない自信の無さと一体だったと突きつけられるのです。

もう演じる必要もなければ意味もない。
もう褒めてくれる人も、認めて欲しい人も何もないのですから。

それでも、染み付いた意識は変わりません。
そこにいるのは、今、この瞬間の滑稽なほど無力な裸の自分。

唯一人。

その時、後悔や恐れが一気にやってきます。
自分の人生ではなかったという後悔。
自分の性格だったと思っていたものが、染み付いていた叫びだったと知る恐怖。
今までの努力が、すべて自分を飾るためだけのものだったと知ったときの虚無感。

悲観的に考える必要はありません。

それでも、山頂なのです。

今まで歩いた確かな成果なのです。

人生の成功者に見えたバリバリのビジネスマンが
万引きや、どうしようもないつまらない汚職や犯罪に手を染めるのは、きっとこういう時だと思います。
今まで順風満帆だった人が突然人生を棒に振るようなことをしてしまったり、自分を傷つけてしてしまうのは・・・もしかしたら、こういう時なのかもしれません。

曲がり角。

手に入れた時、その全てを失います。

求めていたものは所詮そんなものだったりします。
でも、そんな時だからこそ知ることができることもあります。
それは、そのときに露わになる、何も持たない、何も持っていない裸の自分です。

出世も立身もない。

正義も目的も、過去の栄光もない。

そもそも自分なんてものには、なにもない。

そう気がついた時にやっと、飾っていた豪華な鎧を脱ぐことができるのです。

その時こそ、すべてが許されている。
すべてが受け入れられているのだと気がつける瞬間でもあるのです。

人生を、そういうものだと噛みしめて、もう一歩を再び踏み出せるかどうか。
人として生きる宿命をまっとうするために、新たな一歩を踏み出せるかどうか。
それは、いのちの分岐点-チャンス-でもあるのだと思います。
それは、いのちの意味を知るか否かの、自分の命を輝かせるかどうかの分岐点であり選択肢なのだと思うのです。

ただ気が付けるか否か。
それだけの違いです。

そして、その為に必要なもの。
それは「縁」が全てです。

「縁」は自分ではどうしようもないように見えるかもしれません。
でも、それを掴み取れるかどうか、一歩を踏み出せるか否かは100%自分の力、選択なのです。

私は30代の半ばにして師に出会うという縁を得ました。
そして、その縁を活かすという選択をすることができました。
その「縁」に感謝するばかりです。
一方で、私は「選択」できた自分を今でも誇りに思っています。

あの日、私の人生は始まったといっても過言ではありません。
そして、「縁」と「選択」は今でも、常に私に問いかけてきます。

どっちを選ぶんだい?と。

今もまた道の途上。
そして何度も何度も繰り返す山頂を越えては迷い、恥じ、そして次の峰を目指すのです。
峠はまだまだ続くのです。
道はまだまだ続くのです。
選びさえすれば。

そして、新しい自分に近づいていく。

その一歩一歩が自分の人生だと、そう思うのです。

自分が自分であり続けること。
倫理観や道徳観。
身につけてきたあらゆるスキルや処世術を奪い去った、素っ裸の自分を見つめ、そんな無力な自分を知ること。
知らなかった自分を知ること。
そんな自分を認めること。

それは吐き気がするほど苦しいことです。

誰でもできることじゃないのかもしれません。
だから、まさに命がけなのです。

でも、何も怖くはありません。
目には見えずとも、必ず先人の足跡があります。
私たちは一人ではないのです。

最初の一歩を踏み出しさえすれば、その歩み自体が至福なのです
山頂に辿りついてからが、本番です。
失ってからが、人生です。

「霊性の道」 は 『生きる道』 なのだと思います。
特別なことも何もない。
ただ、真に生きる道。

自分は駄目なんだ。
こんな自分なんだ。

でも・・・悪くはない。
だから、歩く意味がある。

そう思えた時に、全てが生まれ、素っ裸の自分が立派に立ちあがり始めます。

生きるとは変わること。
これもまた諸行無常なのでしょう。
それを虚しさに転化するのか、成長という変化に化成していくのか。
もし、変わることを自ずからえらべたとしたら、何時の日か
見たことの無ないような素晴らしい景色に祝福されていることに気がつくでしょう。でしょう。

霊性を言葉でお伝えするには、文才だけでなく何もかも未だ私には足りません。
私も自分を見失ったり、認められなくなることの繰り返しです。
でも、それもしかたない。
それでいい。
そう思います。
私もまだまだ道の途上なのだから。

「途上」とは“未だ至らない”ということ。

「まだまだ上っていける」ということなんだから。

ただ現在地点を受け入れ、ただ一歩前へ。

霊性の道とは、気が付こうが気が付くまいが、じつは等しく皆が歩んでいる道。
生きる道だと、そう考えます。

神さま、仏さまというと拒否感をいだかれるでしょうか。
霊性の道は人の道。
その先には、この世がなんの欠落も曇りもない愛の世界だとすることにつながります。
神さま仏さまの、曇りない愛と共に生きる道なんだ。
私はそう思います。

願わくば、私も霊性の道を、まっすぐ歩いていきたい。
愛されるを望む人から、愛することを望む人に。
迷ったとしても、へこたれたとしても、ベクトルは上を向いて。
師の背中を頼りにして、その先を希求しながら。

私もまた、みなさんと共に歩いていきたい。
そして、その道しるべになることができるようになりたいと願って止みません。

 

 

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