4.霊性とは

 

知性と霊性

 

霊性とは何か。
これを説明することは本当に難しいことです。
なぜなら、感覚を言葉で表現できたとしても
それを真に理解することは“感じてみないとわからない”からです。

新たな概念は、自分で得て初めてわかるものだからです。

例えば、山に入り木々や花を“それ”と認識すること。
山を山と
花を花と認識する
これは視覚で感じている情報です。

 

その上で

これは何々という山で、標高は何メートルの山だ。
この花は何々という花で、いつ頃に咲くのだ。
つまり視覚で感じた情報をもとに、知識でそれを分析することで理解しようとするのです。

これは知性の範疇といっていいのかもしれません。

同様に
山を山とし、花を花とするように、
これは雨だ、これは水だ、これは水蒸気だ、
これは道徳だ、これは善だ、これは悪だ・・・・。
様々な区分けをして、各々の概念の領域を定めることで、分析し認識しています。

さらにその上で私たちは
山の先になにかを見いだそうとします。
花の姿の先になにかを見ようとするのです。

山は雄大だ、
花の美しさは可憐さにある、
水は清々しい、
善であるべきだ。
悪は許されざるべきものだ。

これは情念や感情といった心の範疇です。

私たちはこのように知性と感情をフル稼働して、目の前の対象を理解しようとしています。

しかし、これは実は対象を理解しようとしているのではありません。

それらと対峙した時に、「そう認識した」自分を感じようとしているのです。西洋で『死に至る病』とかつてよばれた、
己の存在価値の不確かさ、孤独や無常の憂いから逃れるために他とは違う自分を(時に優越感を伴い)知った気になろうとしているのです。
こうして一時の安心を得て、常にくすぶり続ける不安の火を少しでも忘れようとしようとしているのです。
そして、それでもなお不安の火が消えてしまうことはありません。

しかし、これら知性と情念の認識を超えた境地があります。
そのありのままの姿を、そのままに、
盛ることもなく、素のままで、
一切の偏見に汚されることなく、ありのままに立ちあがらせることのできる力。
そのありのままの真の姿を
そのありようそのままに受け取ることのできる力です。
それこそが知性を超えた霊性の範疇です。

ありのままの姿で他者を受け入れ
ありのままの姿で自己を受け入れ
ありのままの姿の世界を生きることができる。

不完全な説明ではありますが
それが霊性の概念の一端だと私は考えます。

 

苦しみという名の道標

 

私たちは社会的地位や友人や家族を、衣服のように身にまとって暮らしています。
それを剥ぎとったとき、自分には何が残されているのでしょう。

その曖昧な、そして根源的ともいえる問いから私たちは無意識のうちに逃れようとしています。
何かを得よう、何かになるろう。
そうすることで、自分は何者であると安心できるのです。

でも、それは一瞬の気休めに過ぎません。
何かを得ては、いつしかそれは当たり前にになってしまいます。

そしてまた新しい何かを求めてしまいます。
そして、それが手に入らないことに苦しんでしまいます。

同じように、望まないものを手にしてしまう苦しみもあります。
望まないもの・・・病気や不遇な境遇、苦手なあの人、家族の問題。
それを受け入れることができず、
解決できない苦しみに未来を悲観してしまうこともあるでしょう。

こう考えると、本当の平穏な日々はどうすれば手に入るのことができるのかとわからなくなります。
苦しみから逃れようとすることで、そのこと自体が苦しみになってしまうこともあるでしょう。

◎◎すれば解決する。

誰しも、答えを求め何かにすがろうとしてしまいます。

人間、解答を明快に打ち出すことはやさしいことです。
でも、
むしろ解答を出さないで、矛盾に引き裂かれたまま、どこまで耐えられるかが、本当の力なのです。
そこにこそ、ありのままを見出す、霊性の力の根源をみることができます。

人間の本能に根ざすもので、人の意志では如何ともしがたい。
それはじつは、人間の満たされぬ欲望の渇きであり、己れの欠乏感からくる飢餓である。
一体化したいという絶対的な望みでもある。つまりは、不可能なものへの渇きであり、はたされぬ孤独地獄なのである。

人は、たまたま何かの理由で苦しみに苛まされるなるのではありません。
人は生きているかぎり、『こうすれば、こうなるだろう』と何かの計算や期待をする生き物です。
いつも未来へとの自分を思い浮かべているものです。
その架空の未来に常に生きているといってもいいでしょう。
でも、私たちの今はいつも不確です。
そして同じように、未来も不確かなものです。

その不確かさから逃れようとするのは知性を持つ動物としての人間の本能なのかもしれません。
その本能によって自分の不確かさを察知し、憂いや孤独といった苦しみを感じるのです。
生きるとは不確かなものです。
だからそういった人こそ、真に生きることに気づいているともいえるのです。

悩みや憂いは状況や環境が改善さえすれば、幸福になると考える人が多いようです。

しかしこれは大きな間違いではないでしょうか。
物質的に恵まれたはずの現代社会、飢える心配や明日の生存を疑う人は少ないでしょう。

それなのに若者の自殺は不気味に増え続けています。

心から幸せだと常に思える人に世の中は溢れかえっているでしょうか。

明日の死も分からぬ私たちが、ひとり自分の人生と直面するとき、不安や憂い、苦しみを感じるのです。

そのとき、物質的欲望を満たすことが生きる目的ではないことに気がつきます。
優越感が幸せと信じ、優越感の獲得こそが努力だと盲信していたことが、
実は孤独を生み出し、自分自身を狭い牢獄に閉じ込めていたことに気がつきます。

そのとき、苦しみこそが自分が作り出していると云うことを知る為に必要な道だったということを知ります。
その苦しみこそ、真に生きる意味、
真に自分のいのちの光を輝かせる霊性の道への手がかりなのです。

だからこそ

苦しむ人こそ、
迷う人こそ、
霊性の道に、
いのちを輝かせることのできる至福の人生に近い人なのかもしれません。

 

人、人に逢うなり、我、我に逢うなり

 

人は孤独な生き物です。
一人でいると孤独で苦しくなるけれども、かといって集団に属しても却って孤独は大きくなる。
誰しもが経験したことのある心境ではないでしょうか。
人は人に出会って心の寂しさや孤独をいやすことができるのでしょうか。
いえ、むしろ逆ではないでしょうか。
天上天下唯我独尊というお釈迦様の言葉は
人間の絶対的な孤独を言い表しているのかもしれません。
苦しみも孤独も、寂しさも憂いも同じです。
外に解決を求めても何の意味もないのです。
逃げることはできないものなのです。
ではどうすれば。
逃げることができないのなら、こちらから向かい合えばいいのです。

「我、人に逢うなり、人、人に逢うなり、我、我に逢うなり」 (「有時」巻)

道元禅師の一節です。
私は同じ愁いを持った人に逢ったと思っているが、じつは、私のなかの愁人が同じ人間としての愁人に出逢っている。
つまり、とことんのところ、私は私自身の内なる本当の自分に出逢う以外にありえない。
おのれの真実しか、出逢うべき愁人はいない。
他に自分の理解者を求めてもむだなことだ。
人生とは本来、無理解だということを思い知るべきだ。
はじめて人は自我を見失い、見失ったときはじめて己れに出逢う。
このとき、孤独の人は孤独をつきぬけて、人という人に、わけても素直な魂にかぎりない優しさを注ぐことができる。
孤独は相手に期待しない。
期待しないから一方的に底ぬけに愛を注ぐ。
それが慈悲なのである。